J 「布教者が育つ。心を肥やす。」
昭和五十七年六月十九日 朝の御理解
御理解 第五十節 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地          が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなも          のぞ。」
 先だってから若先生が、御本部へ教会長信行会に出席させて頂いた折りに、東京のある大変御比礼を頂いておられる教会の、教会長先生という方が尋ねて見えて、本当に今にして思うのだけれども、信者は沢山助かったけれども、私は、教師を育てる事が出来なかった事が、ま、一生の悔いを残す事になったという意味の話を若先生になさったそうです。
 それは合楽の若先生という事を知っておられるし、又、合楽のいろんな新聞やらおかげの泉やらも読んでおられる先生だったらしいです。もう、やはり七十位なられるでしょう。
 長年取次者として沢山な人は助かってきたけれども、ね、お道の教師を育てる事が出来なかった。今、教団でいわれる人を育てるという事は信者を獲得するというような事よりも、いうならば、次の時代を担う金光教を担う取次者を育てるという事。
 その育てるという事が合楽の場合は、ね、沢山な修行生がそれこそ前代未聞と思われるように、ま、人が育っておるという事。
 あっ,私は、も、一生の不覚であった。信者は助かったけれども、教師を育てる事が出来なかったと、ま、しみじみこれは若先生に話されたという事でございますが私は今日の御理解を頂いて合楽の一番の魅力はここだと思いますね。今日の御理解ですね。私の方では沢山教師が育っていっております。丁度今度の若先生が行ったのは、十日の教師拝命式の日でございましたから、それこそ、ま、全国の先生方が集まっておる中で、特に十日のお祭りにお参りしてくる人達で、その、教師に対する教師の資格を与える式があるわけ、そこで合楽教会の00、合楽教会の00さんと、合楽教会が七名続いたんです。
 全国何千という教会がありますけれども、教師はたった七十名しかおらんとです。 今度のいうなら、あれにね、それに合楽教会は、合楽教会、合楽教会というて七名も読み上げられた、とまあいったような事も皆に、ま、響いたのでもございましょうね。合楽教会のように人が育つ、というて、なら、自分が教師を育てたいというてねいうて育つのだろうか、合楽ではもう、絶対お前は教師になれ、学院に行けといわれたのは一人もおりませんよ、という事を聞かれていよいよ驚かれたという事です。
 いわゆるひとりでに人が育っておるという事になりますね。それはもう、どういう事でしょうか。私は合楽の魅力はここだと思うんです、ね。
 信者、教師を問わずですけれども、いうならば、これは私の方の息子達の場合でもそうです。そりゃ、もう教会の跡を継がせんならんというて、もうやっきとなって、もう、息子は継がんという、ね。もうそれこそ信心の継承というかね、次の時代に教会を守ってくれるという所がどこにも出来ていないで、これも昨日、若先生が申しておりましたが、も、沢山後継者がなくて困っておるという教会が沢山あるそうですね いうならば、自分の教会を継いでくれるその後継者も育っていないという事ですよね。ちょっと、やっぱおかしいと思わなきゃいけないというて育てるある教会では、大変御比礼のたつ教会で、ま、偉い先生ですから、その、子弟、いわゆる信者の高校大学に頭はいいけとも行けないといったような子供は、全部教会に引き取って学費を出してやって大学を卒業させた。そして道の教師にさせたといったような教会もありますね。これはただし、だからひとりでに育ったとは言えませんね。人間心が入ってるわけ。
 ところが合楽の場合はひとりでに育つ。だから同じひとりでに育つでもです、ね、例えば、なら、とにかく、とかく信心は地を肥やせ、肥えた地に何を蒔くか、何が生える事が一番神様の気感に適うか、喜びを受ける事ができるかという事になりましょうね。野菜を作る人があるかもしれん。お米を作る人があるかもしれん。ね、果物を作る人があるかもしれん。そのうちで一番私は、神様が喜んで・・・・・まあ、昨日の御理解を引用すると、神も喜び、金光大神も喜び、自らも喜べるというような信心とは、ね、どういう信心をいうのであろうか。勿論、沢山な人か助かり信者が育っていくという事でもありますけれども、ね。教団で求められてる事もそうですけれどもやはり、何というても自分の全身全霊を布教に打ち込んでいけれるという私は、布教者を育てるというか育つという事が一番神様がお喜び下さる事ではなかろうか。
 しかも合楽の修行生の、ま、大半はです、みんな海外布教を願っておる。もう、いよいよ、ね、神様の願に答えると、いうならば、そういう人が育つという事ではなかろうか、ね。そこで、なら、合楽はどうして、そういうふうに人が育つかとい事をですね、これは私が皆さんにいつも申しますように、とにかく信心は地を肥やせである 地を肥やすという事をね、一生懸命信心させてもらい一生懸命御用させてもらう。 お先祖を大切にするといったような事も、地を肥やす手立てに違いありませんけれども、問題は教会長、私自身の心を肥やすという事に焦点がおかれておる事ですね。 どんなに血の涙の普通からいうたら流れるような、腹の立つような問題であろうがどういう損になるような問題であろうが、ね、それを黙って受ける。成り行きを尊ぶ大切にするという生き方をさして頂きよったら実験、それを実験せて頂くところから実証が生まれてきた。
 ああ、腹を立てんでよかった。ね、あん時いうならば、不平不満を言わんでよかった、そん時にはきつかったけれども、それを黙って受けておるうちに、それが私の心を肥やす第一の肥料になっておったという事がわかる。と今度はそういう事がある事が、はあ、神様はこんなにして豊かに大きくして下さるんだなあ、こんなにして地を肥やして下さるんだなあというて、もう、のっけからそれを合掌して肥料として受ける事ができる。合楽で説かれるのはここです。
 だから皆さんも大きなおかげ、豊かなおかげが頂きたいのですからね、先ず、自分自身の心が豊かに大きくなってね、しかも、ひとりでに物ができるような、しかも、物ができるというても、神様が一番喜んで下さるような育つような、ね、おかげを銘々頂いて頂きたいと思います。
 今日この五十節というのは、もう、合楽に一番、私の信心にピッタリしておるみ教えだと思います。ですから、ここに御縁を頂く皆さんもです、もう、この御理解が私に、ピッタリというような頂き方が出来たら、いよいよ豊かな大きな心が育っていく事です。そこに、なら、大きな豊かなおかげが約束されるのです。
 合楽はよっぽど、その、むごういうちから、みんなに学院にやりよんなさるじゃろといったような、ま、風評もないじゃないです。はあ、大坪さんはなかなか商売人じゃから、人使いが上手といったような事を言う人もあります。なるほど、私は根っからの商売人ですから、本当に人の心を自由自在にする事は私の得手でした。
 ところが、そういう人間心ではいけない事がわかったのが今日の、いうなら、人間心をふり捨てるという事。神情一つで行くという事ですから全然そういう事じゃない育て方がうまいという事じゃない、ね。どこまでも神様が育てて下さるのであり、ね神様が教導して下さるのである、というこれは私の確信ですけれども、ね。
 今日のこのみ教えを頂いて合楽に一番ピッタリ、どうして合楽にあんなに人が助かるじゃろか、沢山人が集まるだろうか、どうしてあんなに沢山教師が年々歳々出来ているだろうかとね、それはいうなら、私のいうならば、進め方が上手だからというのではなく、ひとりでに物が出来るように出来とる。その元は、私の心の中に、いよいよ豊かに大きうなる事がもう楽しみ、それだけが楽しみ。
 昔、それを私はね、いわゆる金の亡者という者、金さえ儲かりゃどげなこっでんするというとがおります。
 私は徳の亡者だという。もう、それがお徳になる事なら人が悪口を言おうが、も、一つだんだくらせられたっちゃ、徳を頂く方が有り難いという私の生き方なんです。 ですから、そこに心が豊かに肥える、肥えないはずがない、ね。ですから、ここは皆さんも、いうならば、私に右ならえして下さるという事に一心発起されたら、いよいよ世の中がそれこそ、バラ色に見えてくるでしょう。腹の立つ事、イライラする事がなくなるもんね。いや、その、イライラしたり腹の立つような事が肥料だから、かえって有り難いというて受けられる。その実験実証をいよいよ積んで頂きたいと思いますね。
 どうぞ。